※覚え書きです。
日本の大学では、美学・芸術学の研究室に所属し、そこで映画論を主に学ぼうとしている(まだまだ専門は映画論ですとは言えません)。
パリでは、建築学校へ交換留学生として建築を学んでいる。それは、工学系ではなく芸術学系の建築学校だ。
プロジェ(デザイン・スタジオ?ゼミナール?)では、「映画と建築」を受講しているが、中身は、映画の中での建築物の映されかた、が主のようだ。つまり、ロケーション論というか舞台装置論というか。
でも、それは、私の考える映画と建築の共通点ではない。
私は、映画という表現と、建築という表現の構成についてとても気になっている。映画は、カットとカットが、またシーンとシーンが組み合わされて、ひとつの作品になる。それは、物語をもとに構成される。そして、そこには2時間の作品なら2時間という時間がある(もちろん、映画の中の時間は、例えば、ある人物の伝記ものなら、80年という生涯を表す時間もあるわけだが)。
建築に、映画に似た時間があるとは思えないが、巨大な表現物である以上、観覧者は、歩くなりしてしか建築物の全貌を見ることはできず、そこに建築という表現を知覚するために時間があると言えるだろう。しかし、それは、個々人によって、そのかかる時間は異なるわけだが。
パリの街のように建築物のファサードが連続しており、パリという街を認識する場合、通りを歩くなりして知覚するしかその認識はできないだろう。ある建築物のファサードを、映画のカットと置き換えた場合、連続した景観をシーンとして捉えることはできないだろうか。またそのシーンに置き換えられたある一定の距離を持つファサードの連続が、例えば、大通りから大通りまで、区単位である場合、それらが構成されてひとつの景観になるとき、それをひとつの映画作品に置き換えられないだろうか。
外国人が抱く、「パリらしい風景」とは、このファサードの連続が、そのひとつの要因を担っているだろう。
とりあえず、次に続く。
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