ブログを書くと決めてまったく書いていなかった。あくまでも本分は建築と映画をテーマに書いていこう。
↓ウィキペディア、メトロポリス(1927年の映画)↓



建築家によってデザインされているいくつかの今日の現代建築は、曲線が非常に多様されている。幾何学的なデザインもあるが、そういったものは、パズルのピースのようにおさまるためのものではなく、何らかの自己主張があるように思われる。機械などもどんどんと小さくっている。こういったことを考えると、2027年に近く現実の現代は、100年前の予想とははるかに異なったものになろうとしている。
映画メトロポリスを観る。
メトロポリス(Metropolis)、1927年、119分(mk2のDVD版)、監督:フリッツ・ラング(Fritz Lang)、出演:ブリギッテ・ヘルム(Brigitte Helm;Maria)、アルフレッド・アベル(Alfred Abel;Johhan Fredersen)、グスタフ・フレーリッヒ(Gustav Frohlich:Freder Fredersen)ルドルフ・クライン=ロッゲ(Rudolr Klein=Rogge:Rotwang the Inventor)、配給:UFA(ドイツ)、松竹座/東和商事(日本)
↓ウィキペディア、メトロポリス(1927年の映画)↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%B9_%281927%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB%29



あらすじとしては、2027年の未来都市におけるホワイトカラーとブルーカラーの対立である。この対立をなくし、手を取り合うようすすめる主人公フレッダーとマリア。対して、自らの利益を守ろうとするホワイトカラーでフレッダーの父ヨハンと発明者ロトワング。ヨハン達はロボットをつくり、労働者自ら労働者を落としいれさせようと誘導する。最終的には、ロボットは破壊され、自己利益を求めすぎたロトワングは死に、ヨハンと労働者は、フレッダーやマリアの仲介のもと手を取り合って、物語は終わる。
この映画で注目すべき点は、この映画の製作当時の未来観ではないだろうか。もちろん監督フリッツ・ラングや原作者テア・フォン・ハルボウ(Thea von Harbou)の主観的未来観であると言えるかもしれないが、興行として成功させるため当時の観客を魅了するようつくられ、また映画を通じて当時の観客に未来観を与えたとかもしれないということをふまえると、まったく否定されるものでもないだろう。
まずオープニングは、ピストン運動する機会の一部が写し出される。ついで、バロック型の超高層ビル。それらのビルはひしめき合うように建っている。またビルを縫うように高架道路があり、ビルの隙間をセスナ機が飛んでいる。以上はホワイトカラーが住む地上世界であり、ブルカラーの労働者は、マンションが乱立する地下世界に住んでいる。地上世界と地下世界はエレベータでつながれているが、この行き来はあまり許されているもんではないようだ。労働者が働く工場内は、巨大な機会がある。これらは、巨大なパイプや、バルブ、また時計などで構成されている。
また、すべての風景の中に植物らしきものがあまり出てこない(フレッダーがマリアと出会うシーンは植物の噴水のある公園だが)。
この映画で描かれている未来像を言葉に表すならば、無機質、ダイナミック、アクティブではないだろうか。また建物そのもの、またそれらの乱立具合は、非常に幾何学的である。ここに住む人間ですら、何かの社会システムに束縛され決まりきった運動しかしない。こういった光景はモダニズム的だと言えるのかもしれないし、1927年という年代から考えても、そう言える。
以下は感想
建築家によってデザインされているいくつかの今日の現代建築は、曲線が非常に多様されている。幾何学的なデザインもあるが、そういったものは、パズルのピースのようにおさまるためのものではなく、何らかの自己主張があるように思われる。機械などもどんどんと小さくっている。こういったことを考えると、2027年に近く現実の現代は、100年前の予想とははるかに異なったものになろうとしている。
現代の未来観は、例えばアニメ「攻殻機動隊」に見られるようなネット社会、ネット内での密集や倫理などではないだろうか。メトロポリスという言葉が示すような、映画の中での都市への人間や建築物の密集は、ネット内で実現されているが、それ以外は、すべて異なる方向に進みつつある。もちろん、そうなるまでには、共産主義の崩壊、マルクス主義への批判、など映画「メトロポリス」的になろうとした要素の破壊や批判があったという手順の上でだが。
