※覚え書きです。
パリの景観を構成するファサードの連続はどのような美的機能があるのだろうか。
映画の物語に対応するようなものはあるのだろうか。
映画と物語、と言ってきたが、何も映画は物語のみで構成されているとは言えないだろう。ひとつの作品ではなく、あるシーンや、ひとつのモンタージュに視点のレベルを下げた場合、もちろん、物語のある部分を表現しているわけだが、なぜ、その物語を表現するために、あるショットとショットを組み合わせたのだろうか。
映画撮影の際、あるカットをつくるために、編集のために素材として複数のショットを用意しておく。撮影以前に、監督の頭の中には、より多くの空想のショットがあり、ショットとショットの組み合わせがあるだろう。しかし、最終的には、ひとつしか選択されず、表現される。なぜ、それである必要があるのか?
ひとつのコマを分析した場合、それは絵画なりの図像学などを用いれば解決できそうなことである。しかし、カットの単位になると、そこに連続した時間が生じるため、画面上に写し出されている動きや変化を考える必要がある。しかし、これも、演劇やインスタレーションなどの理論を用いれば分析できそうだ。
問題は次のレベルだ。カットとカットが連続した場合、時間と空間は一般的に連続しているが、視点が異なる。交換モンタージュが用いられれば、空間が不連続だし、フラッシュ・バックなら時間と空間が不連続だ。
そして、シーンとシーンならば、空間も時間も確実に不連続である。
もちろん、これらには、観客が違和感なく映画に没入するための工夫はなされている。例えば、あるシーンで登場人物が画面右の扉を出ていったなら、次のシーンでは、左の扉から登場する。
しかし、これは物語があるからこそ、叶うものである。
映画から少し離れて、映像に視点を変えてみる。ビデオ・アートや、ミュージック・ビデオの場合、これは何を根拠にショットとショットを組み合わせたのだろうか。あるショットからあるショットへとイメージが移った場合、「かっこいい」と思えるのはなぜだろうか。
このような現象が映画にもあると言えるだろう。そして、このようなイメージの組み合わせが、建築にも共通しているのではないだろうかと思う(まだまだはっきりとは言えませんし、そうではない可能性も十分にありますが)。
ひとつの建築物の正面と側面のつながり、外観の内観のつながり、部屋と部屋のつながり、など。また、ファサードのつながり、景観と景観のつながり。そして、それを見て、「パリは素敵だな」と思う観覧者。
もちろん、そこには、パリを歩く人々、パリの香り、パリでの経験、TVなどが放つパリのイメージ、パリへの先入観や憧れ、などの要因も加わっているはずだが、私の考えとしては、視覚による知覚にしぼっていきたいと思う。
とりあえず、もんもんとした考えを、文字化してみた。はてさて、これから何をすべきで、どう進んでいいのやら。
その前にフランス語という壁が立ちはだかっている。こいつをある程度の段階までどうにかしなければ、どうにもこうにもブルドック。
2007年12月6日木曜日
映画と建築の共通点を探る、その1
※覚え書きです。
日本の大学では、美学・芸術学の研究室に所属し、そこで映画論を主に学ぼうとしている(まだまだ専門は映画論ですとは言えません)。
パリでは、建築学校へ交換留学生として建築を学んでいる。それは、工学系ではなく芸術学系の建築学校だ。
プロジェ(デザイン・スタジオ?ゼミナール?)では、「映画と建築」を受講しているが、中身は、映画の中での建築物の映されかた、が主のようだ。つまり、ロケーション論というか舞台装置論というか。
でも、それは、私の考える映画と建築の共通点ではない。
私は、映画という表現と、建築という表現の構成についてとても気になっている。映画は、カットとカットが、またシーンとシーンが組み合わされて、ひとつの作品になる。それは、物語をもとに構成される。そして、そこには2時間の作品なら2時間という時間がある(もちろん、映画の中の時間は、例えば、ある人物の伝記ものなら、80年という生涯を表す時間もあるわけだが)。
建築に、映画に似た時間があるとは思えないが、巨大な表現物である以上、観覧者は、歩くなりしてしか建築物の全貌を見ることはできず、そこに建築という表現を知覚するために時間があると言えるだろう。しかし、それは、個々人によって、そのかかる時間は異なるわけだが。
パリの街のように建築物のファサードが連続しており、パリという街を認識する場合、通りを歩くなりして知覚するしかその認識はできないだろう。ある建築物のファサードを、映画のカットと置き換えた場合、連続した景観をシーンとして捉えることはできないだろうか。またそのシーンに置き換えられたある一定の距離を持つファサードの連続が、例えば、大通りから大通りまで、区単位である場合、それらが構成されてひとつの景観になるとき、それをひとつの映画作品に置き換えられないだろうか。
外国人が抱く、「パリらしい風景」とは、このファサードの連続が、そのひとつの要因を担っているだろう。
とりあえず、次に続く。
日本の大学では、美学・芸術学の研究室に所属し、そこで映画論を主に学ぼうとしている(まだまだ専門は映画論ですとは言えません)。
パリでは、建築学校へ交換留学生として建築を学んでいる。それは、工学系ではなく芸術学系の建築学校だ。
プロジェ(デザイン・スタジオ?ゼミナール?)では、「映画と建築」を受講しているが、中身は、映画の中での建築物の映されかた、が主のようだ。つまり、ロケーション論というか舞台装置論というか。
でも、それは、私の考える映画と建築の共通点ではない。
私は、映画という表現と、建築という表現の構成についてとても気になっている。映画は、カットとカットが、またシーンとシーンが組み合わされて、ひとつの作品になる。それは、物語をもとに構成される。そして、そこには2時間の作品なら2時間という時間がある(もちろん、映画の中の時間は、例えば、ある人物の伝記ものなら、80年という生涯を表す時間もあるわけだが)。
建築に、映画に似た時間があるとは思えないが、巨大な表現物である以上、観覧者は、歩くなりしてしか建築物の全貌を見ることはできず、そこに建築という表現を知覚するために時間があると言えるだろう。しかし、それは、個々人によって、そのかかる時間は異なるわけだが。
パリの街のように建築物のファサードが連続しており、パリという街を認識する場合、通りを歩くなりして知覚するしかその認識はできないだろう。ある建築物のファサードを、映画のカットと置き換えた場合、連続した景観をシーンとして捉えることはできないだろうか。またそのシーンに置き換えられたある一定の距離を持つファサードの連続が、例えば、大通りから大通りまで、区単位である場合、それらが構成されてひとつの景観になるとき、それをひとつの映画作品に置き換えられないだろうか。
外国人が抱く、「パリらしい風景」とは、このファサードの連続が、そのひとつの要因を担っているだろう。
とりあえず、次に続く。
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