2008年2月15日金曜日

メトロポリス(Metropolis)

ブログを書くと決めてまったく書いていなかった。あくまでも本分は建築と映画をテーマに書いていこう。

映画メトロポリスを観る。
メトロポリス(Metropolis)、1927年、119分(mk2のDVD版)、監督:フリッツ・ラング(Fritz Lang)、出演:ブリギッテ・ヘルム(Brigitte Helm;Maria)、アルフレッド・アベル(Alfred Abel;Johhan Fredersen)、グスタフ・フレーリッヒ(Gustav Frohlich:Freder Fredersen)ルドルフ・クライン=ロッゲ(Rudolr Klein=Rogge:Rotwang the Inventor)、配給:UFA(ドイツ)、松竹座/東和商事(日本)

とりあえず、映画の詳細は、実際に映画を観るか、ウィキペディアでも参照してもらえればいいと思う。

↓ウィキペディア、メトロポリス(1927年の映画)↓



あらすじとしては、2027年の未来都市におけるホワイトカラーとブルーカラーの対立である。この対立をなくし、手を取り合うようすすめる主人公フレッダーとマリア。対して、自らの利益を守ろうとするホワイトカラーでフレッダーの父ヨハンと発明者ロトワング。ヨハン達はロボットをつくり、労働者自ら労働者を落としいれさせようと誘導する。最終的には、ロボットは破壊され、自己利益を求めすぎたロトワングは死に、ヨハンと労働者は、フレッダーやマリアの仲介のもと手を取り合って、物語は終わる。
この映画で注目すべき点は、この映画の製作当時の未来観ではないだろうか。もちろん監督フリッツ・ラングや原作者テア・フォン・ハルボウ(Thea von Harbou)の主観的未来観であると言えるかもしれないが、興行として成功させるため当時の観客を魅了するようつくられ、また映画を通じて当時の観客に未来観を与えたとかもしれないということをふまえると、まったく否定されるものでもないだろう。
まずオープニングは、ピストン運動する機会の一部が写し出される。ついで、バロック型の超高層ビル。それらのビルはひしめき合うように建っている。またビルを縫うように高架道路があり、ビルの隙間をセスナ機が飛んでいる。以上はホワイトカラーが住む地上世界であり、ブルカラーの労働者は、マンションが乱立する地下世界に住んでいる。地上世界と地下世界はエレベータでつながれているが、この行き来はあまり許されているもんではないようだ。労働者が働く工場内は、巨大な機会がある。これらは、巨大なパイプや、バルブ、また時計などで構成されている。
また、すべての風景の中に植物らしきものがあまり出てこない(フレッダーがマリアと出会うシーンは植物の噴水のある公園だが)。
この映画で描かれている未来像を言葉に表すならば、無機質、ダイナミック、アクティブではないだろうか。また建物そのもの、またそれらの乱立具合は、非常に幾何学的である。ここに住む人間ですら、何かの社会システムに束縛され決まりきった運動しかしない。こういった光景はモダニズム的だと言えるのかもしれないし、1927年という年代から考えても、そう言える。
以下は感想

建築家によってデザインされているいくつかの今日の現代建築は、曲線が非常に多様されている。幾何学的なデザインもあるが、そういったものは、パズルのピースのようにおさまるためのものではなく、何らかの自己主張があるように思われる。機械などもどんどんと小さくっている。こういったことを考えると、2027年に近く現実の現代は、100年前の予想とははるかに異なったものになろうとしている。
現代の未来観は、例えばアニメ「攻殻機動隊」に見られるようなネット社会、ネット内での密集や倫理などではないだろうか。メトロポリスという言葉が示すような、映画の中での都市への人間や建築物の密集は、ネット内で実現されているが、それ以外は、すべて異なる方向に進みつつある。もちろん、そうなるまでには、共産主義の崩壊、マルクス主義への批判、など映画「メトロポリス」的になろうとした要素の破壊や批判があったという手順の上でだが。

2007年12月6日木曜日

映画と建築の共通点を探る その2

※覚え書きです。

パリの景観を構成するファサードの連続はどのような美的機能があるのだろうか。
映画の物語に対応するようなものはあるのだろうか。

映画と物語、と言ってきたが、何も映画は物語のみで構成されているとは言えないだろう。ひとつの作品ではなく、あるシーンや、ひとつのモンタージュに視点のレベルを下げた場合、もちろん、物語のある部分を表現しているわけだが、なぜ、その物語を表現するために、あるショットとショットを組み合わせたのだろうか。

映画撮影の際、あるカットをつくるために、編集のために素材として複数のショットを用意しておく。撮影以前に、監督の頭の中には、より多くの空想のショットがあり、ショットとショットの組み合わせがあるだろう。しかし、最終的には、ひとつしか選択されず、表現される。なぜ、それである必要があるのか?

ひとつのコマを分析した場合、それは絵画なりの図像学などを用いれば解決できそうなことである。しかし、カットの単位になると、そこに連続した時間が生じるため、画面上に写し出されている動きや変化を考える必要がある。しかし、これも、演劇やインスタレーションなどの理論を用いれば分析できそうだ。

問題は次のレベルだ。カットとカットが連続した場合、時間と空間は一般的に連続しているが、視点が異なる。交換モンタージュが用いられれば、空間が不連続だし、フラッシュ・バックなら時間と空間が不連続だ。
そして、シーンとシーンならば、空間も時間も確実に不連続である。

もちろん、これらには、観客が違和感なく映画に没入するための工夫はなされている。例えば、あるシーンで登場人物が画面右の扉を出ていったなら、次のシーンでは、左の扉から登場する。
しかし、これは物語があるからこそ、叶うものである。

映画から少し離れて、映像に視点を変えてみる。ビデオ・アートや、ミュージック・ビデオの場合、これは何を根拠にショットとショットを組み合わせたのだろうか。あるショットからあるショットへとイメージが移った場合、「かっこいい」と思えるのはなぜだろうか。

このような現象が映画にもあると言えるだろう。そして、このようなイメージの組み合わせが、建築にも共通しているのではないだろうかと思う(まだまだはっきりとは言えませんし、そうではない可能性も十分にありますが)。

ひとつの建築物の正面と側面のつながり、外観の内観のつながり、部屋と部屋のつながり、など。また、ファサードのつながり、景観と景観のつながり。そして、それを見て、「パリは素敵だな」と思う観覧者。

もちろん、そこには、パリを歩く人々、パリの香り、パリでの経験、TVなどが放つパリのイメージ、パリへの先入観や憧れ、などの要因も加わっているはずだが、私の考えとしては、視覚による知覚にしぼっていきたいと思う。

とりあえず、もんもんとした考えを、文字化してみた。はてさて、これから何をすべきで、どう進んでいいのやら。

その前にフランス語という壁が立ちはだかっている。こいつをある程度の段階までどうにかしなければ、どうにもこうにもブルドック。

映画と建築の共通点を探る、その1

※覚え書きです。

日本の大学では、美学・芸術学の研究室に所属し、そこで映画論を主に学ぼうとしている(まだまだ専門は映画論ですとは言えません)。

パリでは、建築学校へ交換留学生として建築を学んでいる。それは、工学系ではなく芸術学系の建築学校だ。

プロジェ(デザイン・スタジオ?ゼミナール?)では、「映画と建築」を受講しているが、中身は、映画の中での建築物の映されかた、が主のようだ。つまり、ロケーション論というか舞台装置論というか。

でも、それは、私の考える映画と建築の共通点ではない。

私は、映画という表現と、建築という表現の構成についてとても気になっている。映画は、カットとカットが、またシーンとシーンが組み合わされて、ひとつの作品になる。それは、物語をもとに構成される。そして、そこには2時間の作品なら2時間という時間がある(もちろん、映画の中の時間は、例えば、ある人物の伝記ものなら、80年という生涯を表す時間もあるわけだが)。

建築に、映画に似た時間があるとは思えないが、巨大な表現物である以上、観覧者は、歩くなりしてしか建築物の全貌を見ることはできず、そこに建築という表現を知覚するために時間があると言えるだろう。しかし、それは、個々人によって、そのかかる時間は異なるわけだが。

パリの街のように建築物のファサードが連続しており、パリという街を認識する場合、通りを歩くなりして知覚するしかその認識はできないだろう。ある建築物のファサードを、映画のカットと置き換えた場合、連続した景観をシーンとして捉えることはできないだろうか。またそのシーンに置き換えられたある一定の距離を持つファサードの連続が、例えば、大通りから大通りまで、区単位である場合、それらが構成されてひとつの景観になるとき、それをひとつの映画作品に置き換えられないだろうか。

外国人が抱く、「パリらしい風景」とは、このファサードの連続が、そのひとつの要因を担っているだろう。

とりあえず、次に続く。

2007年11月20日火曜日

PPPのブログ / la page de PPP


こんにちは。
Bonjour.

目的もなくブログを書き出そうとしています。
J'écris des phrases avant que ne avoir pas quelque but.

だから、何を書いていいのかわかりません。
Donc, je ne sais pas que je veux écrire.

今、パリに1年間の留学中です。なので、とりあえず、自分の身の回りのことから書き出して、自分の研究のメモのようなブログになっていくよう書こうかな、と今思いました。
Mainntenant, j'habite à Paris pour aller étudier à l'étranger jusqu'à l'année prochaine. Donc j'écris des choses qui sont mes environs pour le moment, et je écrirai mon mémorandum de étude. En ce moment, je viens de trouver ceux.

ところで、ちゃんとフランス語に訳せてるのかな?
A propose, je peux traduire en français?